とらわれない亀

 
スローライフが流行ってたあの頃がすきだった。吉祥寺を歩き 井の頭公園を歩いて 池を眺めながら 言葉や思想を宙に浮かべる。何時間でも そうしていた。お金なんてまったくなかったし だからこそ 創造力は宇宙人レベルに有り余るほど それらをあえてこぼしながら デロデロ人間として徘徊し、そのデロデロ人間は わりと 孤独に生きるのに 慣れていた。誰よりもゆっくりと歩いてやろう という意識が強かった。
それは、よく見えた。
それは、面白さが深かった。
それは、静かで温かかった。
いったいどこから突然パクパクパクパク餌を食べるために水面直下を泳いで焦ってバタバタバタバタ息をしてたのだろう。その理由も、何もかもを私は知っている。ただ、ただ、それは私自身への新しい生き方を体感したかった私の欲求と暴走だった。そういう時期があの私には必要だったと自負している。そうでもしないと 泳いでいくことすらできない死んだ魚のようなことになるっていう恐れと焦りだった。そういうものは、結果的に成長に繋がっているから、脱皮とも呼べるだろうと思う。
それに愛情の裏返しと、愛情の証明のような日々であったと思う。あんなに動けてよかったなぁ。
私は、先日、島崎智子さんの単独ライブを見に行って、そうしてまた、やはり、この人のこの歌たちとこの人のステージが好きだ。と改めて思ったりして。好きだ。と本人に伝えられぬまま、その場を離れてしまう自分の臆病さを痛感したりもした。でも、通えば無言でも、好きだとは伝わるはずなのだ。好きだと言わずして、如何に行動で好きを表すかは、とても大切な話だ。
話が大幅に逸れてしまった、けど、そんなの気にしない。
「好き」という囚われの心の話をしてしまった。そのそばから、私は実は、何にも囚われない心を育てたいなぁ、とふつふつと。
 
つじつまなんて、合わなくても、ハッキリきっぱりとした強い意志があれば、モノゴトは結構上手くいく。乗り越えられる。
 
道が、蛇行したり、二つに分かれていて、歩きづらくなっても、周りに急かされて、どちらかを選ぶような雰囲気になっても、私は、ど真ん中を突っ切りたい。
 
   中
   田
   真
   由
   美
 
ほら、漢字で書いても、ど真ん中を突っ切る人生なのだ。しかも、スローにやってのけたい。平気な顔して人より遅い。素知らぬ顔して、そこにいる。
 
まだ、ここに居ますけど、なにか?
 
あ、きみは、先に行くのね、はいいってらっしゃーい!
 
という強い意志が大切なのだ。老いてもスロー若くてもスロー、中年でもスロー、とにかく焦らされるの大の苦手な私は、咀嚼、咀嚼、して、2017年よウェルカム。
 
 
てな感じで、おいとま。
 
 
- 我 -