私の中で誠であるもの

"中核をつつくほど好き"という感覚に陥ると、その場所から離れるということが想像出来なくなる。アバウトな視覚で、ぼんやりと見ているうちは、わりと殆どが好きな訳だけど。この"中核をつつくほど好き"という感覚は、あまり体感できない。とても少なくて、かなり貴重な確かすぎる"好き"という感覚。
社会を生きていると、あらゆる感覚がとても鈍るのは、致し方ないことだと、私は理解しているし。社会との交わりがあってこそ、生まれるものが作りたいと思う私には、必要な日常のシーンなのだけど。
鈍ることは、悲しいことだ。
でもその鈍る生活の中にいても、この"中核をつつくほど好きだ"と想えるそんな場所、そんな人を知っていることを私は誇らしく想う。
善いものは、其々あり、好いものも、沢山あってよいのだけれども。貴重なものに出逢うと、他の景色の見え方に、がらりと変化が加わる。より、面白くなり、より楽しみが深くなる。
それが、いい。
自分の中核。中核は途轍もなく狭く小さい。針穴のように。そしてその針穴を通ることのできる物事や存在に、キュッと生きていると、稀に出逢える。
そういう出逢いはそこまで増えなくていい。だって、とても大切にしていたいから。
いつまでも、大切にしていたいからね。
- 誠 -