言葉のはなし


1つの言葉には、『100』の背景や意味があり、私には計り知れないものなのだと、思う。そう、思っては、いるのだけれど、どうしても、どうしても、私は、私の考え方、意味、背景でその言葉を捉えてしまう。それは、とても勿体無いことだから、だからこそ、『言葉』を交わすのだ。

というわけで、言葉とは、文字にすれば、平面的ではあるものの、とても立体的な存在だ。立体視出来ない場合は、その時、自分の状態や生き方が問題ないかを  とても注意しなければいけない時期  なのだと思う。

そんなことを考えていたら、昔、親が買ってきたマジックアイの本を必死に読んで( というか、正確には、『見つめた』だ )、目を交差する感覚で見つめることで、平面的だった一つの画から、嘘みたいに別のものが浮き出て見えてくる。というのが、すごく楽しかったことを思い出した。すごく夢中になったなぁ…不思議でたまらなくて。
(例えば、上の画像を参照して下さい。)

そう。
言葉も、これと同じで、じっくり、見つめなくてはいけないと思ったのです。

そして、1つの言葉をかじっただけで、あっさり理解した気になってはいけない。


私も、そしてあなたも、人生色々と見て経験しているし、スルメのような存在なのだから、よく噛んで、味をしっかり、最後まで味わってから、飲み込みたいものですね。

(最後まで味わって。と書きましたが、スルメの最後の味は、まだ味が残っている状態で飲み込むことになるわけで、ガムとは違うから、ある程度の妥協も必要です。)

言葉は、飲み込んで、消化して、身体の一部になるのです。アイデンティティの共有には、時間がかかるもの。


どうか、立体的なスルメのような言葉たちと、その人を大切にして、過ごして生きていけますように。


- 言 -